病院にて2

3人部屋に私一人だったものが2,3日後には全てのベッドが埋まった 一人は大きな点滴が24時間付けられて眠ったままである もう一人の方も食事の時以外は眠っていることが多い 不眠症気味の私はあんなに昼寝したら夜寝られなくなるだろうと思う

だが不思議なことには これらの二人はトイレに行ったことがない トイレは私の専用トイレみたいである 私より重傷でトイレに行く体力がないので 寝たきりにされているのだろうと想像した

食事は今までの病院では病室の小机でなされるのであるが 私だけテレビのある食堂で食べることになった 食堂はノートパソコンが数台置いてありナースや先生が時々入力にやってくる ちらりと見たのであるがエクセルを使った病院用のアプリに記入しているらしい ナースたちの素早い入力の仕方に やはり若い人は凄いなと感じる テレビの画面は誰も見ていないので私が選択してみることになる 大相撲などを見ることができた

最初は車椅子で食堂まで移動していたが そのうち体力が回復すると杖で移動することになった これはリハビリも兼ねているらしいことが分かった

でも 時々病室での食事の時もある 隣のKさんはベッドの頭を高くして 安楽椅子の様にして 食事をとっている Kさんは私より若い80台らしい Kさん前にも話かけられたが 私は耳が悪いので理解が大変である なんで病院に入ったのですか 病室で倒れたのです かれはうなずいて 今度は これはどうしているのですかと手で丸をつくった 質問が唐突に思ったが 年金と貯金で何とかなっています 次から次へと質問してくるので 食べる暇がない そこにナースさんが現れて今は食事をとってください と注意した 彼は未来のことを話しているのだと不満そうであったが ナースさんが仕切りのカーテンを引きお互いが見えないようにした 彼が私に質問をしたのは彼自身が最も気にしていたことなのかもしれないと想像した

来院してから5,6日たったころ 今日はお風呂に入ってもらいますという お風呂はねたままで入れるお風呂ですという 椅子に座ったままのお風呂は他の病院で経験しているが寝たままのものは未経験であった 移動寝台に乗せられて浴室に向かう エレベーターで階下に行き そこが浴室であって そこから浴室用の寝台に乗り換えられた 私は周囲の装置がどうなっているのかは分からない 何しろ私に見えているのは天井の景色だけである 花壇に水をかけるようにしてシャワーをかけてゆく 最後はお湯がブクブクと沸き上がってきた なるほど これは長方形の湯船なのだ お湯の温度も適当に温かく快適だ 人間の一番楽な姿勢は寝た姿である これは極楽といい気分の瞬間がお湯につかった時である この両方がかなえられているので快適であり ずーとこうして居たいと思っても やがてお風呂のお湯が抜かれて再び前の寝台に乗せられて病室へ

退院の時 隣のKさんに挨拶をと思っていたが例によってお休みであった 今まで退院時は保護者が病室まで来てくださっていたが このコロナ騒ぎでナースさんの付き添いで2階の受付のある場所で やっと保護していただいている訪問介護士のFさんに会うことができた

病院にて1

コロナが陰性とわかると 介護士の方から Y先生(訪問医)の見立てでは かなり重症なので入院を勧めいたしますという これは私も感じていたことで 全身の筋肉が衰えて今介護度2なのであるが急に介護度4か5になった感じで 病院の管理下の置かれた方が安心だろうと思っていたところだった その日か翌日か分からないがタクシーに乗せられて病院へ ご存じかもしれませんが この入院した日は患者にとって最も忙しい日である

たくさんの入院手続きにハンコを押して 問診 採血 採尿 腹部のレントゲン検査などが続く 問診をしていただいたのはY先生でY先生はこの病院の院長であることが後から分かった どんなことを聞かれたか忘れたが 先生が言いにくそうにもしも病気の過程で植物状態になった時 延命治療を受けますか受けませんかと聞いた 私はそうなった場合は 延命治療は受けたくありません もう十分に生きましたので と答えた

病室は3人部屋で私一人だけだったので窓際でトイレにも最も近く好条件のベッドに寝かされた 寝ている状態から起き上がりトイレに行くのであるが 一人で行かないで必ずナースさんをよんでくださいという ナースさんに助けられてベッドから起き上がるとき猛烈な痛みを右の脇腹に感じた Y先生が見回りに来た時にそのことをお話するとお腹のレントゲン写真は正常なので筋肉痛のようなものでと思います 筋肉痛とは筋トレなどをやるすぎたときに筋線維が傷つきそれを補修する過程で痛みをかんじるあれである 思い当たるのは床に倒れたとき 赤ちゃんがやっているハイハイの姿勢を取れば戻れるかと思いうつ伏せになったものの ハイハイの姿勢がとれず 何回も試したときに腹筋を傷つけたらしい 老人になってからの筋肉痛はなかなか治りにくく毎日軽減してはいるものの退院の時もまだのこったままであった

また入院そして退院

自分のリハビリのためと存在証明の目的もあり 週2回の割合でブログを続けてまいりました

ところが その晩に就寝後 目を覚ました時 とても寒く感じました なんでこんなに寒いのだろう 毛糸のジャケットを寝巻の上から羽織ました 風邪を引いたのかとおもい 感冒薬を飲んだ記憶があります それからの記憶をどうしても思いださせないのですが トイレに行ったのではないかと思われます その帰りに 急に立つのが困難になり へなへなとゆかに座り込んでしまいました これが間違いでした どうしてもベッドにたどりつきてから倒れるべきでした 床からでは どうしてもたちあがれないのです 筋肉が衰えてその場から動けないのが分かりました ヘルパーさんが定刻にくるまで床に転がったままになりました

助けられてから大騒ぎとなり ケアマネジャーの方 チーフヘルパーの方 訪問医も先生も来ていただき 体温を計った時 9度の熱がありました その翌日も テレビでよく見る防護服を付けた前日の3人が現れて 点滴を受け 血液検査と鼻の粘膜から液を取りました 防護服を見たとき これは大変なことになったぞ コロナの疑いを持たれていたことが察せられました どうしても分からないことは なぜ? コロナに感染する機会が少ないことです デーケアで行くほかコンビニにヘルパーさんがお付きで買い物をするぐらいです 蜜なことはほとんどしていません 考えられるとすればマスクをするとき息苦しさを感じて鼻出しマスクにしてしまうことが多かったという事です 高熱が出たという事はコロナの発症と似ています もし陽性ならば周囲の人々も巻き込まれてことが大きくなる どうしたものかと大変悩みました

その後 陰性であることが分かり いったん安堵したのですが 体力の衰えがひどくて 検査結果から脱水症のデータが出ているという事で入院して 病院の管理下に置かれました 毎日点滴を受けているうちに 前日より後日の方が良くなっていることが分かりました 右の腹筋が動く度に痛いのは床に転がった時 何度も起き上がれないものかと試したために使いすぎた筋肉が筋肉痛を起こしたためでした

病院の食事は最初3分1しか食べられませんでしたが 退院する頃は9割食べられるようになりました いまでも 嘗ての食欲のようではありませんがだんだん回復してきました

脱水症の事なのですが 水分は充分とっているはずなのになってしまったという事です 何故か 私は頻尿の気があります 水分を取っていても排尿により水分が多ければ体内にある水分が少なくなるのかな など算数のような理論を考えてしまいました もちろん なんの医学的根拠がありません 自己流の考えです 約2週間余りの入院でした

それでも やっとブログを書く気になました これからも細々ながら続けてみたいと考えています よろしくお願いいたします

PS この記事は記憶の欠けているところもあり 不確かなこともありますが 残っている記憶を頼りに書いたものです

 

 

 

クレマチス

クレマチス

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近所家の花壇に咲いていたクレマチス

テッセンという日本名もよく使われているらしく この名の方を前から知っていた 私がまだ健在で 我が家と今療養所になっている小部屋を毎日往復していた時のことである 通い道の途中に この季節になるとクレマチスの大きな紫色の花を咲かせる家があった クレマチスはつる性の植物で そのつるが網目状の垣根を埋めつくして 草の花が咲いているカーテンのようで美しい ある日 そこを通ると花が急に少なくなっていて寂しくなっていた そして 「大事にして育てている花ですので花を持ち去らないでください」と書いた紙がぶら下がっていた ひどいことをする人がいるのだなーと残念であった

その隣でも花の垣根があり その花はクチナシであった午前中の定刻にここを通るのであるが かなり年配の女性がかがみこんで垣根の手入れをしているらしい 毎日会うので私もおはようございますと挨拶した 少し微笑んで挨拶に答えてくれた 毎日お会いするうち 女性は手入れと言っても垣根をただ触っていることが分かった 何をしているのだろうと思っていたが 何だかやっていることが無意味にようで もしかしたらこの人は認知症が出ているのかもしれないと感じてきた そんなことが長い間続いたのち 急に女性の姿が消えた 定刻にそこをと通っても彼女はいなかった それを境に彼女の姿を二度と見ることがなくなった おそらく 介護所ようなとことに引っ越したのであろうと想像した 今私自身が毎日の介護されている生活なので あの優しそうな女性はどうしたのかなと思いだすのである

アマリリス

その店は閉まっていた 最近まで精米店を営んでいたが 遂に閉店したらしい そのシャッターの前に玉ねぎのような球根を植えてある鉢が数個並んでいた なんだろうと思っていたら大きな花が咲いてきた アマリリスという豪華なきれいな花である

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10cm以上もある大きな豪華な花です

この米屋にはおもいでがある それは1993年の平成の米騒動という事態が起こったのだ この年は 日本は記録的な 冷害に見舞われて お米の生産量が国民の必要量を下回った それまでは 毎年米余りで農家は減反を迫られていたのに 突然の出来事で政府は外米の輸入を迫られた 改めて日本人がお米大好き人間であることも知らされた 輸入された外米のうちタイからのものはインディカ米という細長いパサパサした味の物 どうも粘り気のあるジャポニカ米に慣れた日本人の好みと違っていた 外米は不味いという印象があった ところが六本木のロアビルでカレー屋さんがあって そこでインディカ米を使ったカレーを出していた これが大変美味しかったので これでカレーライスにして食べたら美味しかろうと思い 近所の米屋さんに行き買い求めた 米屋のおやじは わざと間違えたのか要求した倍の量をくれた 間違えたのでは というと サービスですからという 多すぎると思ったがかなりの量の外米を持つことになる それからしばらくの間カレールーと豚肉でつくったカレーライス食べることになったことを覚えている あとからパエリアなども良かったのではと思う 何しろ生米を煮ればよいので米をご飯にする手間が省けると思うからです

思うに今はお米はスーパーに行けば売っているし 米だけ売る米屋は経営が大変だろう 店を閉めた米屋の主人は生活をどうしているのだろうと思ったが 豪華なアマリリスを見て 悠々自適している様子がうかがえる

みたらし団子

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完成したみたらし団子のイメージ


この日のデーケアの催しはリクリエーションおやつと称して みたらし団子作り 最初は白玉粉を一人20グラムずつこのテーブルの人員は6人ですので計120グラムを計量してくださいと言って秤とボールと白玉粉を私に渡された 昔の秤はボールの重さを量りこれにプラス120グラムとするのであるが 今の秤はボールを置いて0グラムのボタンを押すとその点が0グラムになる こんなことも知らなかったとは やはり私は昔の人なのだなと自己発見 白玉粉は 粉かと思っていたが小さなフレーク状の物 感で120グラムを入れると150グラムほど  少し取り除くと125グラムほどになった これで良しとして隣の老人にわたすと 豆腐を 一人20グラム計120グラムを入れて下さという 隣の爺さんは几帳面な方で120グラムの豆腐を追加したりとったりしてなかなか決まらない 人間の味覚は多少の誤差でも分からないと聞いたことがある いい加減でもよいのになどとテキトウな私は思ったりする そして この方は大変真面目に仕事をなされていた人だと想像する 次にすることは極めて単純 白玉粉と豆腐をかき混ぜる これは考えた 豆腐の水分が白玉粉に浸透して全体がねっとりした半固体状になる これが なかなか難しい 小さなソボロ状になるがねっとりしない 選手交代でかき混ぜる しかし 中には物静かな いい人なのに認知症が出ている人もいて かき混ぜる意味が分からず 番が来ると かき混ぜ棒で材料を食べてしまう 皆がアッと声を出す ナースさんが飛んできて食べたものを口中から取り出した 

このような少しの事故があったが あとは一人40グラムの材料をとりこれを分けて 4個の団子に丸めて串に刺して これで作業は終わり 竹串にはクツザワとネームが入っているのでこれをみんなと一緒にして卓上コンロでゆでる 出来上がったところに みたらしたれ(これは既成)を刷毛で塗り出来上がり お茶が出て試食の時間 大変美味しい これは美味しいねと言うと介護士さんは そうですか 良かったですねと嬉しそう

感心したのは豆腐を使って水なしで団子ができることであった

PS 自家製の団子と言うと子供のころ母が月見団子と称して上新粉を使って団子をつくり ススキなどと共に飾った後で食べた記憶 母の団子は普通の団子より大きかった  食べきれなかったので翌日も焼いて食べるとかえって美味しかった    

小人数試合

コロナのため野球や相撲などの試合が 少人数または無観客を迫られている この体制になってからなんと長いことだろう 野球の少ない観客と集団での応援がない試合をテレビで見ていると 昔を思い出す 正式のリーグ戦が始まる前オープン戦があるのは昔からである 新聞社はこのオープン戦の切符をサービス品としてくれた まだ東京ドームには屋根がない時代であった 何しろただで見られるからという事で後楽園球場に弟と行ってみた 試合は巨人と南海ホークスであったと思う

席は巨人側の席であった 私設応援団と思われるオッサンがそばにいた 無敵の王者巨人の様なことを書いたかなり大きな手製の旗を広げて 時々振る ところが彼の期待に反して巨人の旗色が良くなくなった 緋本というバッターが連続して三振に倒れた すると

「緋本 お前はダメな やっちあなー」と大声で怒鳴った まさに贔屓の引き倒しである

この頃は個人の選手をやじる声が 直接選手に届いたのである いまは集団で応援する時代で個人の声など到底届かない でも 今の小人数で静かに観戦しなさいと言う球場では 観客の声が選手に伝わるそうである

南海の投手にスタンカという投手が出てきた スタンカは今たくさんいる外人選手の草分け的存在で まだ珍しかった すると例のオッサンが スタンカ すかたん(方言で期待外れ 間抜けの意味) と何回か叫び 最後に ヤンキー ゴー ホーム とまで言ってしまった

スタンカは聞こえたらしくこちらをきりり向いた

回が進むにつれて巨人の敗色が濃厚となった オッサンは相変わらずヤンキーゴーホームを繰り返す スタンカは頭に来たらしく たまらず つかつかと寄ってきた そして巨体を利用してそしてフェンスを乗り越えようとしたができずあきらめた オッサンもさすがに連呼をやめた はるばるアメリカから日本の野球に貢献しようときたした人になんということを言うのだと残念であった 外人には 親切にすべきだとそのころから思っていた 来た外人は日本に好意を持っているから来たわけだからである

今から考えると 昔と比べると観客のマナーも大変改善されたと思う