うしとみしよぞ

段々わかってきたが 養護ホームはかなり病院に近いと思う 介護士 看護師が絶えず身体の様子を調べに来る 病院との違いは専属の医師が常駐していないだけである

家内はなくなったその日のうちに 葬儀社に運ばれてドライアイスで冷やされる処理が行われた 終の棲家と言うだけのことはあってその点 経過がとてもスムースである

家内は花が好きな人であったので 花を豪華にしていただいた 実は家内は真言宗のお寺の娘であったので仏式の葬儀となる 戒名について聞かれた つまり大姉 にするか信女にするかである 大姉の方が威厳もあり格式が高いのは知っていた しかし私は信女の方が しんにょ という音の響きから優しい女性を感じさせる様な気がしていた 私の感じだけであるが大姉というと偉いなになに女史みたいに聞こえて感覚的に好きでなかったからである 家内は気丈な人で優しいとは言いがたいなと思っといたが 大姉的な人でもなかったから これだけは私の意志を通した

参加人員はコロナのこともあり親戚だけの家族葬になった

その家族葬も終わり 今 擁護ホームの私の部屋には 家内の遺骨と遺影 それにこの部屋にちょうど収まる仏壇がある これも皆保証人になっていただいた方がそつなく用意していただいたものである 

家内は長い間ヘルパーさんにご厄介になっていたのでホームのヘルパーさんにとっても知らない人が亡くなったのではなくよく知っている人が亡くなったことになるので ありがたいことには  仏壇に捧げるご飯など毎朝変えていただている

私としても けして理想的な夫婦だとはとてもいえないが65年に渡ってともに暮らした歴史は いなくなると穴が開いたみたいで とても寂しく感じるもので 

百人一首の うしとみしよぞ 今は恋しき という心境です

 

P.S. 憂し(うし)とみしよぞ今は恋しきの うし は現職の時 国語の先生で部長さんだったS先生に教わったもので 

ながらえば またこの頃や忍ばれん うしとみし世ぞ 今は恋しき 藤原清輔朝臣 の下の句で 憂し は辛かったことや苦しかったことの意味みだそうです

最後

家内の病院での情報はミズタマのチーフマネージャーのM氏によってももたらされていた病院での診察処理がおわり 退院した後 今までのような自宅に帰るという生活はできない状況であることもわかった とにかく体を動かすにもすべて介護士や看護師が必要であったからだ こんなことで家内は24時間面倒を見ていただく老人ホームに移ったのであるが 家内が一人だけでホームに移るのは寂しいと言うことで 私も終の棲家になるだろうホームに移ることになった 手続きのことで遅れて8月のはじめにホームに入ることになったが 家内の容態が思っていたより悪く 食事が十分にとれていなかった 今まで診察をしていただいている駒沢病院の先生がいらして 点滴をしていただいていた 私のホーム入居の主な目的は家内の介護ということであったが 介護と言っても実際の介護の行動は介護士さんが行うので 私はただそばについていただけであったが 手を握っていてくれというので 手をつないでいたのであるが 就寝時間になって自室に戻ろうとすると嫌がるので つい長居になることもあった 気が強く弱音を見せない人でしたが 最後はよほど心細かったのでしょう 今までとてもいい夫婦とはいえなかったが なんとも悲しい心情が先になってしまい どうにかならないものかと思案する日々が続いた 往診に来た先生からもう覚悟をしていてくださいと言われて ぐっとこみ上げるものがあった

夜の3時頃 寝ていた私がヘルパーさんに起こされた 家内が危ないと言うのだ 家内は荒く息をしていたが いつもの様に手を握ってみたが反応がなかった ただ大きく呼吸をしていたがそれが細くなりついに呼吸が止まってしまった それが家内の最後であった

駒沢病院の主治医も来て死亡を確認した

ターニングポイント

私の介護を受けながらの生活も軌道に乗ったかに見えた しかしデーケアで家内に会って話していたとき 家内は体を動かしたとき脚または腰に痛みというというのはいつもの通りでこれは心配していなかった というのは病院で診察されたとき3カ所の骨折があり2カ所は自然治癒していたが1カ所は手術をするかしないかが微妙で少し痛みが残るかもしれないが手術をしなくても日常生活ができる状態で高齢ということを考えると手術をしない選択もありますという 家内は手術をしない方を選んだからである 

その後 家内もデーケアに来ることになり デーケアに行くのはバスに乗り込まなければならない ヘルパーさんに助けられてバスに乗り込むのであるが これが かなり体力がいる 私も苦心して乗り込んでいたのでわかるのである でもこれができるのだからかなり体力があるなと推察していた この状態はかなり長く続いたのであるが あるときから脚や腰の痛みに加えて胸が痛いといいだした これが今考えると大腸癌から来る一つの症状だったのだろう 家内は 今日は体調が悪いのでとデーケアを休むことが多くなった 家内の介護所である本家にも通いのヘルパーさんが来てくれる ヘルパーさんは家内が異常に弱ってきたのを見て 強制的にかかり付けのお医者さんに見ていただくようにした 担当医は診察するとすぐ入院をすすめて その日のうちに駒沢病院に行くことになる この病院生活でいろいろと検査の結果大変大きな病気であることがわかった 大腸癌のうたがいがある 下血が認められたのでほぼ間違いはないだろうという診断であった そして癌の手術をしても92歳と高齢なので体力などを考えると意味がないといわれたそうである 

これは 思ってもみなかったことである 常識的に考えて高齢とはいえ私より5歳若く しかも女性であるから当然私の方が早く逝ってしまうものと思っていたからだ スマホなどで調べてみると女性の大腸癌は乳がんを抜いていまや1位の死亡原因であることもわかった これは大腸癌の場合初期のときは痛みなどの反応がなく 痛みが生じたのはかなり癌が末期になっているのではないのかとの疑いである

 

慣れてきた介護生活

小部屋の介護所は姪夫婦が紹介してくれた 水玉(ミズタマ)という介護士派遣会社の計らいでヘルパーさんが週4回 デーケア(名はヒバリ)に週3回 デーケアは通いの介護施設でその日は定刻に小型バスがきて施設に送り迎えてくれる 介護所は桜並木沿いにあり 桜並木は長い長い公園になっていて年中花が絶えない 大変気に入っていたところであった しかし公園沿いの小径は狭く普通は 自動車は入れないが デーケアのバスの運転手さんはこのギリギリの道をうまく運転して私の小部屋のマンションの玄関に止まり送り迎えをしてくれる だからほとんど歩かないのです 雨の日などもほとんどぬれずに通うことができた 

デーケアに行く主な目的は入浴ということである かくして 一週7日間はすべていずれかの ヘルパーさんのご厄介になることになった 

これからいろいろと事件に見舞われたりしたのであるが述べていると 2年前の記事と同じになってしまうので先を急ぐ

 その後 家内も病院を退院して 代沢にある本家を整頓して本家に介護所を作った そのために介護所がそれぞれ違ってしまったのであるが デーケアに共通の日があり このときはデーケア側が二人で連絡などの時間を作ってくれた 30分~40分ぐらいの会話であったが うまくいっていたと思う 話し損なった部分は後から電話で話すのであるが 私が 難聴が進み電話での会話が理解できず 何回も同じことを聞き直すので家内がいやになって次回のデーケアで話しましょうということになる

このスタイルの生活は通いのミズタマのヘルパーさんやデーケアのヒバリのヘルパーさんともなかよくなってだんだん板に付き 長く続くものと考えていた ところが思わぬことで続けられなくなった

P.S. 老人介護の施設には ミズタマとかヒバリとかかわいい名がついている これはなぜだろうと思っていたが よく 人は老いると子供に返ると昔から言われていた それで幼稚園のような 覚えやすく親しみやすい可愛い名になったのだろうと思う

 

同じ病院へ

引き続きその日のことを述べると 家内は救急車で病院へ 私は卒業生の車でリハビリテーション病院へ それぞれ入院したことになります

それから しばらくして 家内も退院して同じ リハビリテーション病院に来ることになった なんだか少し恥ずかしい感じがして オーマイガーなどとおどけてみたが これが二人で同じ介護所で過ごす最初のことであった 後からわかったことだが夫婦者で入院している人がかなりいることがわかり 特に意識する必要もなかったのです 

家内も私も4人部屋の病室に入っていたが ある日 家内の病室に出かけてお話をしていると たまたま介護士さんがきてあなたはどなたですか ここは女性病室ですから男性が入ってくるのはいけません と追い出されそうになった 家内が これは主人ですの というと びっくりしたようで でも 規則違反すだから少しの間お話してもよろしいですが 話が終わったら出てください と言われてしまった 病院側の規則はよく知りませんでした以後気をつけます と這々の体で出てきた それ以後お話は廊下での立ち話とか デールームという食堂に使っているところで行っていた

近頃の病院は病気が治りました 退院です といって患者を解放して終わりではなく 患者が退院した後のことも考えてくれる 私は代沢にある住まいと 前にもお話に出たマンションの小部屋を持っていた 本家の方は和室が多く 私が転んだ原因になった階段などがあり 小部屋の方が速く介護所になりやすいことがわかった 何よりパソコンなど私の趣味であるものはすべて小部屋においてあった 退院した後は小部屋に行きたいと願った

前から事実上 大げさに言えば代沢の家はいわば寝るだけみたいなところであった 

しかし小部屋は長い間使っていたため いろいろなものが堆積していて テレビで紹介している かたづけられない人の部屋 よりはましなのであるが それに近くなっていた そこに助ける神が現れた 小部屋を介護所になるようにかたづけてくださるという

身内の姪夫妻 現職時代の同僚であったH氏と 私が最終的に担任だった生徒たち  かくして私の趣味の部屋は私が病院を出た後の介護所に変身していた

老老介護2

それまでの生活は 二階で寝ていたので 二階に行こうとして階段を上りかけたのだが 一歩も歩けないことがわかった 仕方がない苦痛に耐えながら一階で晩は過ごし 朝になり救急車を呼び自衛隊の中央病院というところに入院した 入院しながら老老介護していた相手 家内 を残したまま自分だけ病院に入ったことが気になっていた 携帯をかけて お前も入院してくださいと促したが 買い物ぐらいは私一人でできますと聞いてくれない 姪 や 安心健やかセンター の職員が直接家に行き説得を試みたが鍵がかかったままであった 病院で治療を受けながら 一日一回スマートフォンで電話を入れることにした 言うことはいつも同じ 病状をきくことと 早く病院にいってください 答えはいつも ノー おそらく 病気なので乱雑になっている寝室を見られるのが耐えられないくらい嫌なのだろうと察していた

しかし このデッドロック状態も終わりの時をむかえる 私が自衛隊中央病院を退院して 梅ヶ丘にあるリハビリテーション病院に転院することになったのだ 転院するに当たって必要なものを取りに自宅に行かなくてはならない 私の担任だった生徒が親切にも自家用車で自宅まで私を運んでくださった 自宅に着くと 家内が出てきたが 驚いた 玄関で立っていられず横になる始末 こんなに悪くなるまでどうしてと 

幸いなことに 援助してくださっている 安心健やかセンターの職員さんも駆けつけてきていただいていた 今までの開かずの扉が開いたのだ 職員さんはただちに救急車をよび家内は急遽病院へ行かされた 入院先の病院でもこんなになるまでよく我慢していたと驚いていたそうだ 家内がまだ健在だった頃 私は病気になっても病院に行かずここで死を迎えることにしたい と一言申していたことを思い出した そのとき何の意味かわからなかったが 従容として自然に死を迎えたいとでも言うのか? いまでもよくわからない

とにかく老老介護の2人が入院したので 病妻をおいて私だけが療養生活しているという心の圧力から解放された

老老介護

定年後 私たち夫婦は 私が遅い朝に自宅を出て別宅として借りている小さな部屋に出かける 部屋には書籍パソコンなどがおいてあり それを使って遊んで 夕方になると帰るということがルーティン化していた それは 水上勉という有名な作家が ある雑誌に 一人遊びの楽しさ? という記事を書いていた 何でも自由にできる部屋があれば楽しいだろうと同感したのがもとで 自宅からあまり遠くないところに小部屋を借りたのがはじめであった 部屋を借りるのはお金がかかることになるので家内が反対すると思いきや 二つ返事で賛成してくれた 私が現職の時 昼間努めて夕方に帰るという生活が板についていた 定年になり毎日私が家にいることが負担であったからだろう 「亭主丈夫で留守がいい」 とは主婦の本音を言ったものだろう

部屋は平成2年か3年頃借りたので 30年以上その小部屋を利用していたことになる

この生活スタイルは愚かにもなんとなく 永久的に続くもののように思っていて いつか老化によって続けられなくなってしまうことなどはあまり考えたことがなかった

 しかし 家内が下北沢の商店街で買い物をして帰るとき転んで 歩くときに痛みを感じるようになった それでもあまり重大に感じず買い物などをしていたが また転んだ 外科の診断を是非受けなさいと提案したが聞いてくれない 私も何回か転んだのだが歩けなくなることは免れていた だが このときからすでに 老老介護が始まっていたのだ 足が痛い家内は買い物の回数が減り 私がメニューを聞いてスーパーやコンビニに出かけることが多くなていた

事故が起こったその日のこと 私が帰りがけにスーパーで買い物をして帰宅したのだったが 自宅には3段の石段がある 一段目二段目三段目を登ろうとしたとき脚の力が弱く登り切れず後ろに転倒 しまった 大ごとが起こるぞと絶望的な思いが倒れる瞬間にひらめたまま下の段まで転げ落ちていた 起き上がれなかった 幸い家の前の通りは人通りが多く 親切な通行人に助けられて家に入ることができたが この事故を境にして老々介護の生活環境ががらりと変わることになる