更にモンゴメリーの事(0さんから)

モンゴメリーのついて 疑問について飯島さんから答えがありました 更にOさんからも 詳しい履歴 エピソードについて教えていただきました 以下はOさんが資料から調べていただいたものです 貴重なレポートなのでそのまま 載せたいと思います Oさん本当にあリがとうございました (Oさんに あらかじめお知らせしていませんがお許しください)
P.10 モンゴメリーは、1歳9ヶ月で母をなくして以来、母方の祖父母
    アレグザンダー・マクニールとルーシー・マクニールによって育て
    られた。祖父は農業の他に、郵便局もやっていた。その祖父母の
    家が、キャバンディッシュにあったのである。

P.11 卒業して島に戻ったモンゴメリは教職に就くが、26歳の時再び
    ハリファックスに移り、『デイリー・エコー』という夕刊紙の「校正
    係兼社交欄編集者兼雑用係」として働くことになる。
    しかし、翌1902年にはキャバンディッシュに帰り、1911年3月に
   祖母のマク二ールが86歳で亡くなるまで、家事と祖母の世話に
    明け暮れた。

P.100〜101 
    母方の祖父アレグザンダー・マクニールは、1898年3月77歳で
    なくなった。祖父の遺言で23歳のモンゴメリは一人ぼっちになった
    祖母に代わって、郵便局長助手の仕事と家事を引き受けさせ
    られることになった。しかも、遺言には、祖母が亡くなるその日まで
    孫娘として祖母の面倒をみなければならないと定められてあった
    のである。
    彼女はキャバンディッシュに引っ込み、郵便局の仕事と家事に
    追われながら、リンゴやサクランボの果樹園に囲まれた祖母の
    家の二階の南向きの部屋で、寸暇を惜しんではタイプを打って
    原稿を送り続けた。
    25歳(1900年)の1月17日の朝、自宅である郵便局に一通の
    電報が届いた。

       「プリンス・アルバート 1月16日
        本日ヒュー・J・モンゴメリ死す。肺炎。痛みもなく
        安らかな最期」
       晴天の霹靂であった。少し前に、父からは元気な便りが
       来たばかりであった。

『「赤毛のアン」の秘密』 小倉千加子著 岩波書店  

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P.2〜3  
    彼女の最初の着任地はプリンス・エドワード島のビディファドで、
    ここで1894年から1895年まで教壇にたった。翌年、彼女は
    ハリファックスのダルハウジ・カレッジで英文学の講義を受けている。
    そののち、島に帰り、1896年から1897年までベルモント16番地で、
    さらに1897年から1898年まではゲべデックで教職に就いた。 

    1898年3月、祖父死去。彼女はすぐに教職を辞し、祖母と暮らす
    ためにキャバンディッシュに帰った。さもなければ、祖母はなつかしい
    屋敷を立ち去らなければならなかったことであろう。彼女は、
    それ以後の13年間、『ハリファックス・デイリー・エコー』紙の記者
    として働いた8ヶ月間を別にすれば、祖母を助けて家事をこなし、
    郵便局の仕事を手伝ったのである。そういった年月を通して___
    勉学に励んでいたときにせよ、 教職に就いていたときにせよ、
    記者として働いていたときにせよ、あるいはまた、祖母とくらしていた
    ときにせよ___ルーシー・モードはカナダやアメリカ合衆国の雑誌
    向けに詩、短編小説、連載物を書き続けたのである。

P.3  キャバンディッシュ時代のもうひとつの重要な出来事は、
    キャバンディッシュの 長老派教会牧師のユーアン・マクドナルドと
    1906年に婚約したことである。この婚約は秘密にされていた。
    祖母とずっと一緒に暮らすと約束していたからである。彼女は
    祖母との約束を誠実に守ったため、1911年3月に祖母が亡くなって
    はじめて、結婚についてはっきりした計画を立てることが
    できたのである。

『L.M.モンゴメリの島 写真集』 フランシスW.P.ボールジャー編
                  ウェイン・バレット&アン・マッケイ写真
                  宮武潤三&宮武順子訳

                  篠崎書林